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自己表現と尊敬と石井中明朝体

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インタビュー集「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」(文藝春秋刊)から
村上春樹さんの言葉を借ります。 2003年『海辺のカフカ』の頃。
 「〜今、世界の人がどうしてこんなに苦しむかというと、自己表現をしなくてはいけないという強迫観念があるからですよ。だからみんな苦しむんです。僕はこういうふうに文章で表現して生きている人間だけど、自己表現なんて簡単にできやしないですよ。それは砂漠で塩水飲むようなものなんです。飲めば飲むほど喉が渇きます。にもかかわらず、日本というか世界の近代文明というのは自己表現が人間存在にとって不可欠であるということを押しつけているわけです。教育だってそういうものを前提条件として成り立っていますよね。まず自らを知りなさい。自分のアイデンティティーを確立しなさい。他者との差違を認識しなさい。と。これは本当に呪いだと思う。だって自分がそこにいる存在意味なんて、ほとんどどこにもないわけだから。タマネギの皮むきと同じことです。一貫した自己なんてどこにもないんです。でも、物語という文脈をとれば、自己表現しなくていいんですよ。物語がかわって表現するから。
 僕が小説を書く意味は、それなんです。僕も、自分を表現しようなんて思っていない。自分の考えてること、たとえば自我の在り方みたいなのを表現しようとは思っていなくて、僕の自我がもしあれば、それを物語に沈めるんですよ。僕の自我がそこに沈んだときに物語がどういう言葉を発するかというのが大事なんです。〜」

確かに、物語やエッセイを読んでも「自分が、僕が」といった押しつけがましさは全然ない。
あとがきのインタビューについてあまり気のすすまないこととして
『作家はあまり自作について語るべきではない」
「何度インタビューを受けたところで、僕が言わんとすることは限られたもの」
等々ここにある言葉は、ほんの一部抜粋させてもらっただけでとても奥深く考えさせられる言葉の連続。
『物語』『作り話』のフィクションを書いてるときには悩まずすらすら書けるらしい。
とても孤独な作業だ。でも書けたらどんなに楽しいことだろうとうらやましく思う。
物語を書ける人は一番尊敬できる人かも。

僕らの商売ではクライアントに合わせた広告やイベント、映像映画づくりなどは共同作業が多い。
でもグラフィックデザインは広告など除けばほとんどが自己表現に近いのかも。
村上さん流に言えば「自我をデザインに沈める」ということ?
広告作ってる副田さんも自分を出さないって言ってたけどおもいっきし出てる気がするけどなあ。

そういえばこの本の本文の書体は最近では珍しく
写研の石井中明朝体MM-A-OKLを使っててとても綺麗だ。
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