notes 2010.9

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半年ぐらい前から村上春樹さん全長編を最初から再読している。
30年ぶりに読むものもあり、
全然憶えていないところが多くえ〜っと驚きながら読み進めた。
と同時に全く新しい小説として読むことができた。

※ここに書くことは、個人の考え方であり感想をメモしてると思って、気にしないでほしい。
評論家でもないのに恥ずかしいし(あまりにもファンが多いと思うので)。

最初の風の歌を聴けから村上さんの天才的な比喩が素晴らしい。
数ある著作の中でひとつとして同じ比喩がでてきたことがない。
一部分だが例えていうと
「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」で後半に、
図書館のリファレンスの女の子と食事をするところでは
「ウェイターがやってきて宮廷の専属接骨が皇太子の脱臼をなおすときのような格好で
うやうやしくワインの栓を抜き、グラスにそそいでくれた。」
と、ただワインを注ぐ行為だけでもこんなにおもしろい表現をする。

オリジナリティについてインタビューでも語っていた。

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こんなに細かく言うことは初めて。

「ノルウェイの森」についても納得したことがインタビューで書いてることがあった。
『リアリズムの話はもう十分』『これは僕が書きたいタイプの小説ではないと思った』と言ってる。
確かに村上さんの小説の時系列ではちょっと異質な感じがしていたのだ。
でもちょっと疑問に思ったこと。
ここでは
(特に『ノルウェイの森』というのは、僕にとって一番大切な作品だし)という言い回しになってる。
どちらが正しいのかわからない。

これは版下と色指定で作り上げたグラフィックデザインなのだ。
いま描いてる絵画とは別である。ポスター点数900点。
あまりにも圧倒的すぎる「横尾忠則全ポスター」展を大阪国立国際美術館で
体力を使い果たし3時間以上かけてすみずみまで見る。
昔からなんだけどいつも横尾さんのポスターを見るときは
グラフィックとして見るより気持ちはアートとして感じて見ている。ような気がする。
「無敵」
YOKOOの世界は他のグラフィックデザイン界の人など無関係なのである。
日本人に生まれたことで、海外の方より理屈ではなく解る。
一枚のポスターにはこれでどうだ、これもどうぞと言わんばかりの
サービスや遊びが盛り込まれ、より複雑に表してる。
わかりきってるが故田中一光さんと対極してる。

僕からはこんなに自由で充実したポスターの連続に見えるけど
横尾さんなりにも葛藤はあったらしい。
隠居宣言のなかでは
「グラフィックは経済生活で絵画は人生」
「グラフィックには目的、制約、条件があり大義名分という手段によって成立する」
とかの言葉があり、以外と冷めて仕事として接していたみたい。

「隠居宣言」は「グラフィック隠居宣言」と
横尾さんも言ってるがこれだけの量を見せるのはもうないかもしれないそうで、
そう思うとどんなに暑くても(暑い大阪は大嫌いだ)ただ指命感で行かなくてはと。

感心するのは、
初期の頃の版下や高校時代の印刷物から売れに売れたものまで
良くこれだけ見せられる状態で保存してあるということ。
どこにどう保存していたんだろう? 皺や折り目すらない。
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